今日も、梅雨の晴れ間だった。
色々とやることがあって、家でバタバタと動いていた。
外は晴れて気温も上がったが、風もあって、まあまあ過ごしやすい一日だった。
断酒を始めた人は、とにかく今日一日を飲まない。その飲まない一日を、積み重ねて行くことを目標にするようだ。
最初の頃は、一日一日がとても長く感じられる。私も、最初の一週間は、まるで一年の如くに長く感じた。それだけ、飲酒欲求を我慢したり、紛らわせるのは、難しいし、辛い。
ただ漫然と酒を飲まない日を送るのではなくて、飲んだくれだった自分にとっての、酒を飲まない一日は、奇跡の一日であることを、十分に認識してほしい。
今日もこうしてブログを書けることが、実は奇跡であることを、私は十分に認識している。
目が見えて、脳が正常に機能して、両手の指が脳からの指令の通りに動き、文章を紡ぎだして行く。
たったこれだけのことが、脳にアルコールが回っていたならば、出来ないのである。
目は見えていても、目からの情報は正確に脳に伝わらない。
脳は正常に機能しないので、両手の指へきちんとした指令を送れない。
両手の指は、アルコールによって麻痺しており、動きが鈍い。
飲んだくれの日々は、連続する。つまり毎日が、自堕落な日々であり、アルコールの支配を受けずに過ごすことは、ほぼ無いわけである。
そんな日を繰り返していた自分からすれば、今のこの酒なしの日が連続していること、また、酒なしで送る一日一日が、奇跡の一日であることは間違いない。
だから私は、この酒なしの奇跡の一日を、丁寧に生きようと心掛けている。
一滴でも酒が体に侵入し、それが呼び水ならぬ呼び酒となって、かつての飲んだくれに戻らぬよう、そこだけは、厳重注意を怠らない。
一日のうちで、いつでも、気付いた時でいいのだが、自分が素面(しらふ)であることを、強く意識してみよう。酒を飲んでいない自分が、いまこうしてそのことを認識していることが、奇跡であること。
かつて飲んだくれが、今、全く酒を飲んでいないこと。その日々が連続していること。これが奇跡でなくてなんであろうか。
私がそうであれば、断酒仲間の皆さんも、酒を飲まない奇跡の一日を積み重ねていることは全く同じこと。
私も、そろそろ還暦が見えて来たこの年になって、医者にもかからず、どこか痛いわけでもなく、自分の足で歩き、こうして毎夜ブログを綴ることが出来ることは、奇跡だと思っている。
断酒あったればこその、今の自分である。
尤も、断酒断酒と断酒を論ずるのはこのブログを書く時だけで、普段は全く断酒も酒も忘れ果てているのだが。
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