中秋の名月は、我が家からくっきりと見えた。
猫のちぃちゃんも、月に気付いてか、その方向を目をまん丸くして見ていた。
「空で大きなカリカリが光っているにゃ!」
こんな夜は月見酒⁈
「今宵は空を見上げて、酒を片手に月見酒でほろ酔いと行こうか・・・」
飲んだくれは、桜など見ぬ花見酒と同じで、月など見ていやしない。ただ、酒を飲む理由、きっかけとして、空に月が出ているだけだ。
花見酒、月見酒。見る対象は、季節に応じた、その時だけにしか見られぬ特別なもの。それを見つつ酒を飲む。一見風流だが、その素晴らしい時間は記憶されているのだろうか。後から何度でもその時の感動を思い出すことが、ヨッパライに出来るだろうか。
飲むうちに目はうつろになり、網膜に月は映っていても、脳がそれを認識していない。目が虚ろとは、そのような状態を言う。
素面の私は、部屋の明かりを消して、家族で月を堪能した。夜空に煌々と輝く、丸い大きな光。満月。猫も空を一緒に見上げている。これが風流と言うものだろう。
酔っ払いながら月を見た人が、今宵は日本全国に沢山いたことだろうな。コロナのせいで外出が制限されて、在宅の人が多かったことだろうし。
月見酒と言えば、中秋の名月も酒を売るために利用されるようで、買い物に出たスーパーには、月見のコーナーが設けられており、団子などの甘いものと一緒に、酒も並んでいた。
月を観賞するのに、甘いものも酒もいらない。静かに空を見上げて、ただただその神秘的な美しさに感動するだけが良い。それだけで良い。そこに、酒(薬物アルコール)など全く必要がない。
世の中、なんやかやとかこつけて、酒を登場させる。冠婚葬祭などその最たるものである。酒を断ってから、酒の登場するシーンを一々検証し考えているが、そこに酒が必要な意味が全く不明である。
よくよく考えてみるなら、寧ろ、酒など無いほうが良いケースばかりである。何故ならば、酒は人間的な行動や思考を破壊し、記憶も阻害するからである。
日々飲みすぎる飲んだくれは、月見酒などと風流ぶっても、翌朝になれば、月の美しさなど記憶になくて、ただ二日酔いで不快な自分がいるだけなのだ。
それを証拠に、中秋の名月や、咲き誇る桜などについては、飲んだくれ時代の私の記憶からは、すっぽりと抜けてしまっている。
きっと、飲んだくれ時代の私は、虚ろな目で空を見上げ、網膜に映る月も、桜も、脳へはその画像が達していなかったのだろう。
*広告
↓↓↓※コメント欄は、承認制にしています。すぐには反映されませんが、必ず、読んで承認しますので、お待ち下さい<(.".)>
(まことに勝手ながら、コメント内容によっては、承認の前に、削除することもあります)